帰国生界隈のひとりごと

国際関係分野のテーマを取り扱います。ラフに書きます。色々つっこみます。きっと知識が身につきます。日本語育ちforeigner

新興宗教とウィズコロナを逆さに見る【後半】

少し真面目な話になってしまった。

switch143.hatenablog.com

 

に続く後半です。

 

Phase-3 教祖もまた、ビジネスマンである

ここでは1970年代以降と現在の日本と比較しつつ、コロナ禍が新新宗教にどのように受容され過去と近似しているか、教祖の視点を交えて三点まとめたい。

 

①近似する社会情勢

第一に、新宗教が信者を獲得する際に真っ先に狙うのは「引きこもり」の人々である。櫻井(2008)によれば、彼らの精神は、現状の引きこもり肯定してもらいたい承認欲求と、そこからの脱出を願う生存欲求が共存している[1] 。その二重性に取り囲まれる中で、現実の暴力に抵抗できなくなり、人命が尊重されると謳われればその通りに従うことが多くなる傾向にあるようだ。つまり、弱った人につけ込む手法といえる。かつ、自由競争で実力主義と呼ばれる宗教団体は、信者にさらに仲間を集めさせる自己増殖的な要素がある。新新宗教は高度経済成長期において、物質的な豊かさとは裏腹に果てない「欲望」に苛まれた。思想によってその欲求がみたされるのではないかと期待が高まれば、バブル期に信者数が激増したことにも合点がいく。さて、コロナ禍において国民が共通して持つ不安は再来したのではないだろうか。学生が外出規制とともに将来への不安を感じ、自分なりに社会に不信感を持ったとき、新新宗教がほんの一押しするだけで入信することが危惧される。そして元来、5G闘争といったハイテク技術によって利便性が向上したところで、バブル期にも重なる「精神的満足感の先にある虚無感」を感じた人も多いだろう。1995年、「サークル感覚で入信した」という過去の過ちを反省する声を聞けば、コロナウイルスが追い打ちをかけ、今まさにそれが繰り返さうる環境が再び整ったとはいえないか。

 

②近似する財政状況

第二に、コロナ禍において教祖に絶対服従する信者らがとった行動は、あらゆるオンラインイベントに参加し、出会った仲間に近寄るという手法である。実際、顔しか見えない状況で「ヨガ教室」の怪しさを判別することは困難だ。当然だが、新興宗教全般は伝統宗教に比べ、一般社会から寄付金を募ることが難しい。この状況において教団規模の維持を考えるのであれば、出家せず帰依する在家主義にならざるをえないだろう[2]。一般社会に支えられない規模の専従者からのみなる教団は安定的な教団の発展が望めないために、そのような様々な組織運営の無理が発生し、教団構成員にしわ寄せがいったと思われる。まさしく、将来への不安を持った脆弱な心につけ込むマインド・コントロールであり、「財政」状態の悪化から、トップダウンの環境による末端構成員からの執拗な資金集めといった搾取につながっている。日本において宗教法人に持続化給付金は支給されなかった経済産業省は、こうした教団の自然消滅を狙う意図が少なくともあったのではないかと推察できる。加えて、先述した伝統宗教との比較において、彼らは現世での救済を目的としているため、成仏と唱える仏教と異なり現世の一分一秒が救いのための時間とする。したがって、布教活動が難しいパンデミックの時代にも、彼らが教理に従って強硬手段に出たことと思われる。島薗によれば、現世救済を説く宗教の発展は日本独自の文化であった[3]ようであり、これは世界とは真逆の道筋を辿っている。

 

③近似する周辺環境

第三に、国際社会全体の風潮として、新興宗教の蔓延はあまりポジティブには捉えられないことが多い。テロ行為に及ぶ宗教の存在に、国際社会は受容しているのではなく、一部に埋め込まれている。したがって、諸大学はその防止に全力を注ぐべきである。ただし、同時にこれは宣伝にもなるパラドックスも抱えており、オウム真理教も当時のタレントらが松本を持ち上げ、さらに松本本人もテレビの討論番組に露出したことで若者の耳に入る宣伝効果があったという。連日の事件によって大きな注目を浴びて情報洪水さえ起こし、「宗教情報ブーム」で視聴者の好奇心を余計にそそったのである。つまり、このときは宗教が人々を惹きつけたというより、情報レベルで話題となっていた[4]新宗教と「メディア」との関係は色濃いといえば、現代ではそれをコロナウイルスに置き換えることができる。万人の注目を集める的は批判の対象ともなりやすく、報道に不信感を持った人々が「集合」して「発信」する行為が始まれば、それはまさしく社会に不健康なものと見なされるだろう。思想の統合は恐ろしいが、メディアによる集中的な報道の弊害ともいえる。地下鉄サリン事件が発生した後の世論調査では、若者の新宗教への関心は一部のマスコミが扇情的に指摘するほど強くはない[5]が、確実に社会に影響を与えてきた。つまり、この点についていえば、現在の我々はまた新新宗教の勧誘だけでなく、新たな宗教の誕生も奇跡ではない状況に差し掛かっているとも考えられる。元来規模を縮小していたアレフが、公安調査庁の報告では2020年だけで60人の信者を獲得した要因にもこれらが関わっていると推察できる。

[1] 島薗進新宗教を問う―近代日本人と救いの信仰』筑摩書房、2020年、p.158。

[2] 櫻井義秀「『カルト』と暴力:オウムの教団戦略とその破綻」『JSCPR』2005年、p.29。

[3] 島薗、前掲書、pp.218-219

[4] 島田裕巳『最新・新宗教事情―カルト・スピリチュアル・おひとりさま』勉誠出版、2009年、p.144。

[5] 石井研士『現代日本人の宗教 増補改訂版』新曜社、2007年、pp.108-109。

 

Phase-4 コロナ禍は、最大のビジネスチャンスなのか

仮にバブル期と今回のパンデミック期に重なる部分があったとして、このようになる経緯は必然だったのだろうか。不安に救済を与えることは本来の宗教のあり方であるが、果たして過激化すべきだっただろうか。

コロナ禍に際して、天台宗は利他の精神を想起させ、カトリックは改めて犠牲者に主キリスト教を通して父である神に祈りを捧げ続けている。宗教的世界観を崩さず、伝統宗教はコロナ禍においても科学的知見とともに不条理なウイルスへの理解を示す。他方、同時期において新新宗教の不健康性は世界で顕著に見られる。韓国の新天地イエス教会でクラスターが発生したことも、教理に従って確実に信者に取り入れるため強制的に対面で礼拝堂に通わせたり、ワクチン接種の禁止令に従わせた過激行為が現れていた。タマホーム社長の玉木氏が過激な反ワクチン論を掲げたうえで社員に非接種を強要した件もこの類と思われ、社会的地位や名声を落とした点でその不健康性が伺える。他方、全米福音同盟が2021年1月に行った調査では、福音派指導者の95%が「ワクチンが接種できるようになれば接種する」回答していた[6]。これらの比較からは、一部の新宗教が人々の社会的孤立の軽減に徹しているというより、足下の数字が悪いための行動で、過激に走るその独善的な性格が読み取れる

加えて、これらの宗教からの脱退は、教団側から信仰態度が厳しく管理されていること、決心がつきにくい環境、そして家族への介入を恐れてより困難にしていることがある。不健康な新興宗教全般がこれらを徹底する根本的な原因には、世代継承率の低さがある。例えば天理教は、信者であっても家に仏壇を残し、葬式や法事の継続を許容しており、教団構成員の高齢化に伴って子孫が関心を持たなくなる場合が多い。国外に目を向ければ、欧米ではその歴史から宗教多元主義であり、新新宗教さえナショナリズムの中和や宗教・民族間対立の緩衝材になりうるとの信念が浸透しているようである[7]。そのギャップから国際比較は単純にはできないが、コロナ禍においてとった行為に共通点が見られたことは興味深いと考えるクラスターの発生など、明らかな社会の不安を招いたことは、無論、防止策を講じることが可能であり、宗教の成長に際して社会不安に乗じることが常とはいえ、この動向は必然とはいえなかったと考える。中世においてペストが宗教改革の引き金となったように、国際社会がこれらの動きを注視する必要性を感じる。

 

[6] 宗教情報センター「海外の宗教界における新型コロナウイルスのワクチン接種に関する議論」https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=8769(最終閲覧日2022年8月16日)

[7] 島薗、前掲書、p.7。

 

Phase-5 バブル期とウィズコロナ時代に重なるもの

戦後の日本社会とコロナ期を重ねると、いくつかの共通要因があり、世界各地で過激な活動が展開されていた。一般社会と友好を築くのではなく世直しを目指す教団の場合、この世と対決しようとする側面があり、自身は普通の人間ではないと考える側面がある。その考えを以てオウム真理教幸福の科学などが若者を魅了しながらも、停滞期に突入した。そこでコロナ禍に遭遇したことは、彼らにとりまたとない布教の機会であった。しかし、おうち時間が宗教全般における信仰者の増加有利に働いたことは恐らく間違いないが、客観的には新新宗教には不健康性が伴っていた。そして、その背後には常に権威主義的に基づく強制力が働いており、若者が欲望の枯渇に水を恵み、財政難を凌ぎ、メディアの影響に傾倒する1970年代の戦後日本と重なる姿があった、と私は考える。

 

あとがき

宗教と国際政治学は結びつくが、それを単純には理解できない。歴史は繰り返すというが、それは歴史を教科書で知る新時代の人々の楽観主義に起因する側面が少なからずあるのかもしれない。今の地球人に独ソ戦の地獄を知るものは今後減るし、いずれいなくもなる。宗教が基盤にある数々の紛糾のうえに積み重なる新たな歴史として、今回の一件が今後の政治体制をどう変えるかに注目していきたいと思う。

…以上、あくまで一つの考え方として接していただければ幸いです。

お読みいただきありがとうございました。

 

 

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